八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.134


【掲載:2019/3/03(日)】

音楽旅歩き 第134回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

「ドラマ」に真の人間の葛藤と救いを見て涙する

 在宅中の仕事の合間にはよくTVの「ドラマ」を観ます。
それも昔放映されていたものを録画、それをソファーに横たわりながら、見るとはなしに見るといった具合です。
休憩時なのですから静かに、音なしで頭を休めれば良いのですが、どうも「ドラマ」が好きなようです。
音楽作りもドラマ作りと共通するところがありますし、脚本の出来不出来も気になって仕方有りません。
とそれは制作意図と相まって撮影でのカメラアングル、その遠近法なども音楽と多く通じ合うものがあって、
常に対比しながら見ているのかもしれません。
TVチャンネル数の多くなった現在ではとても全部を把握して観る、ということは不可能ですね。
幾つかのチャンネルを選び、そこで配信されているものを録画しておいて後で観る、がほとんどです。
スポーツやニュース番組はあまり見ません。
スポーツはするものだとして見ませんし、ニュースはそのソース(出所)が気になってTVでは観なくなりました。
ニュースの殆どはインターネットを通じてスマートフォンで見るようになりました。

 「ドラマ」の話に戻りますね。
よく見るとはいえ、暴力ものや過激な動きのあるものは苦手。
もっぱらホームドラマや推理ものが多いです。観ては〈よく泣きます〉ね。恥ずかしげもなく泣きます!
はじめは何となく見始めるのですが、「良いドラマ」と感じれば没頭の世界。
その背景の中での主人公の心情に心を寄せて涙が止まらなくなり泣くことしばしばです。
不思議と現在放映中のものは見ていないですね。
帰宅する時間が遅い、という理由もありますが全てとは言えないにせよ、昔に作られたものの方により関心が向きます。
それは懐かしいということだけでなく、実に丁寧に、そして制作することに熱がこもっており、
人物描写や風景も時間をかけて最大の魅力を出すべく細やかにまた美しく撮られているのに心が奪われるからです。
そんな時間的、人的余裕がその時代にはあったからでしょうか。
「映画」が好き、と以前書いたことがあります。
しかし、最近は苦手になりました。
あの大音響と閉塞性(と感じてしまう私)、そして内容も刺激的な部分はメカニカルな進歩もあって体全体に入り込んできますが、
それがとても表面的な事と映ってしまう私です。
外からの刺激ではなく、内から湧き起こるような感動を!なんですね。
〈泣く〉って何だろうかと自問。
いろいろな思いが絡み合ってのことなのでしょうが、私が自覚する〈泣き〉については共通するものがあるようです。
「真に切実な人間の葛藤・軋轢、そしてそれを通して未来に通じる〈救い〉を見る」、その時が涙となって込み上げるのでしょう。
映像の力は偉大です。しかし、それには限界があることも確かなことだと知るようになりました。
「想像」することの偉大さは現実の映像を超えることにあります。
映像を観ながら、そこに映し出されたもの以上の映像を描く、それこそが「ドラマ」を観る醍醐味かもしれません。





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