八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.186


【掲載:2022/1/23(日)】

音楽旅歩き 第186回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

特殊な芸術か?クラシック音楽は

   演奏者として、また演奏会を企画する者としていつも考えることがあります。
〈もし、耳が聞こえない、あるいは何某(なにがし)かの聴覚障碍を持つ人たちにはどう音楽を提供すれば良いのか?〉ということ。
これは美術の分野でも言えること。
目の不自由な人たちに名画をどう伝えれば良いのか?この二つの分野は文学や、演劇、舞踊等とは少し異なっているように思うのですね。
聴覚や視覚、身体的さわりがあれば受け取り方は違って当然です。
美しいものを感じ取るというのは当たり前のことで、誰もが等しく感じることができるというものではないと心得て配慮しなければなりません。

 音楽、それもクラシック音楽について考えます。オーケストラや合唱などを想像してみて下さい。
ステージに規則正しく整列された演奏者が奏する音、音響だけをただただ集中して聴衆は鑑賞する。
このスタイルでは聴覚が一番重要視されますね。
〈見た目〉も大切と思われる方々がいらっしゃるのですが、あくまでも〈聴く〉ということに多大な集中力を発揮させる。
これは現代にとっては〈特殊〉な環境である、と言わざるを得ません。
この分野で指揮者として活動する者(私)にとって、重い事柄です。

 インターネットでもテレビでも、主流は〈観る〉ということに移っています。
踊り(演奏しながら身体を動かす)、照明や、衣装、ステージさえも色鮮やかに演出されています。
鑑賞する者は歌手の歌を聴きながら自らも歌手たちの動きを真似ながら〈観ることを前提とした演奏〉を楽しんでいる。
楽器奏者も例外ではなくなっています。
視覚に訴えて、体をくねらせ、リズムに合わせ過度に動きを採り入れる。そんな演奏は確かに〈映像〉を意識したものでしょう。
音や音響だけに集中すべきだ、とは言いますまい。総合的なものを創作することは良いことだと思います。

 人間の五感(視・聴・嗅・味・触)に訴える。
さすがに音楽には(味・触)は含まれないと思われがちですが、音楽を聴きながら、あるいは聴く前の食事〈味〉は感覚に影響を与えるでしょう。
そして聴くときの椅子や肘掛けや様々なモノに触れる触感もまた大切、といえば言えるかもしれないのです。
ただ聴くことだけに集中。
そこには時代にそぐわないということが含まれていることをしっかり把握した上で、聴衆には〈集中〉をして頂く。
そのことが決して苦痛で無く、集中が楽しみとなり、人間の脳に刻まれる生きている鼓動(内面に含まれる活力、魂を震え動かすこと)、愉悦(ゆえつ)として演奏する。
身体を動かす(踊る)行為は音楽を演奏する上で、あるいは聴く上で不可欠といって良いでしょう。
しかし、動きが飾りであることには抵抗を覚えます。
私が企画し、選ばれる曲は両方の魅力をもった作品です。
思い切り踊りを採り入れ、照明と衣装も彩りを持ち、しかも演奏そのものは動きに影響されること無く、詩と曲が強く関連されて世界を精緻に仕上げる。
そのような演奏のスケジュールがギッシリと埋まりました。是非に聴いて頂きたいものです。





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