八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.189


【掲載:2022/3/20(日)】

音楽旅歩き 第189回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

「仕方ない」は使いたくない言葉のナンバーワン

  演奏家として色々口に出したくない言葉ってあります。その言葉は他の事に対しても当てはまります。
〈しなければならないこと〉の言い訳として使ってしまう事が多く、自分自身に対して正当化する働きをします。
自身を許し、皆と同一化することで核心である問題性から逃げる手立てともします。
私はその言葉を使わない、という決心をしました。
その言葉とは「仕方ない」。

 自分の中で努力し、納得いくまで遣り通す。
そうでなければ結果として決して満足できるものにはならない、という経験からそう言わせる言葉になりました。
「仕方ない」という言葉が出てしまう気持ちになっても、最後の最後、そのまた最後の言葉としても用いたくない、それが私の決心です。
作品を仕上げるに当たって、様々な問題が出てきます。
それは人間関係や金銭面、相互の理解不足が底にあって難しさはあるとは言え解決できないことなんて後から考えれば有る筈がありません。
ただ、その場面には〈しなければならない!〉という気概が不足しているだけ、と思ってしまいます。
現代の演奏は録音・録画として再生することができます。
というか視聴するに値するかどうかを自分自身に問うことを強います。
辛いです。
「仕方ない」との気持ちで作られた演奏は。

 昔は自分自身、演奏したものを視聴することはできませんでした。
その場での真剣勝負。聴衆相手のリアルな精神的な駆け引きと言って良いでしょうか、瞬間、瞬間の修正が出来ない遣り取りです。
指揮者として言えば、演奏家と聴衆との間で音楽的闘いを作ります。
三者が絡みます。その時しか感じ合えない感情の遣り取りです。
しかし、後で冷静になって聴くことができる現代ではそもそも音楽を味わおうとする基盤が違っています。
ライブ演奏時の環境は一期一会の世界。
後に聴くオーディオ世界では聴く側の環境に依ります。
どちらも「演奏の事実」なのですが決して同じモノ(演奏)ではないということを知らされます。
私としてはライブ派なのですが(レコーディングに依る再生を目的とした演奏とは異なります)、
その時の重要な事柄として「『仕方ない』は通用しない!」ってことを深く問われ、刻まれています。

 しかし、一般的には「仕方ない」という言葉を多く聞きます。いやぁ、なんと多いことか!です。
聴く度に「それは尚早(しょうそう)ではありませんか?」と思ってしまいます。
何故「仕方ない」が多いのか?
それは「仕方ある」ことの経験が少なすぎるからです。
特にこの国では「やむを得ない」「どうにもならない」「改めようがない」との壁が厚すぎる。
本当は成し得ることも「諦(あきら)め」が先行する思考。
「仕方ない」を停(とど)める方法。
それは「成功」の体験のみ。達成感だったり、共感の共有であったり、開かれていく世界観への高揚です。
それはとても難しく、そして時間もかかり、覚悟も要りますが閉塞感やモヤモヤ感は軽減します。
負の「仕方ない」を無くす。
それが「演奏」から学んだことです。





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