八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.194


【掲載:2022/6/26(日)】

音楽旅歩き 第194回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

祈りに手を合わせる それがやっとこの年になってできるようです

  6月20日、73歳になりました。
「高齢者」と呼ぶのはこれから75歳から(これまでは65歳)ということに成るらしいです。
色々に絡み合う政策上での呼び名でしょうが、単純に言えばもう少し〈働きなさい〉ということなのでしょうね?
まぁ、今も現役での毎日ですから違和感はないのですが、正直複雑なものがあります。
「もう休ませてもらっても良いかな」「十分に働いたので静かな余生」を考えます。
しかし、結局毎日がこれまで通り。いや、それ以上に忙しくなっています。「感謝すべきこと」だと今では思うようにしています。
これからの演奏も発言も納得のいく確かなものに。
皆さんに受け入れて頂き、喜んでも頂けるようにとの責任の重さを十分に感じます。

 第二次世界大戦が終わって今年で77年。戦後四年目に生まれた私は戦争を知りません。
しかし、幼い頃にはまだ至る所で戦禍の傷跡がまだ残っている時期での生まれ。
その後の5、6歳頃になっての記憶はしっかりと脳裏に残っていて、世の中も「敗戦」の惨めさを感じない日常が続いていた風景であったと記憶します。
気が付けば世界の各分野で上位にある先進国となっていましたね。
その中で育ったことは本当に希有で幸せだったと振り返ります。

 中学生になった頃から私の中で少し世の中を見る目が違ってきました。
それはきっと社会との軋轢に通じる事柄が家族の中で起こったことが原因だったのではないかと思っています。
自分で言うのも憚(はばか)られますが、「感受性が人より敏感過ぎた」きらいがあったのでしょう。
その頃の先生方や友達に、良く覚えているのですが、そのような意味の事を言われていました。

 高校生の時期が決定的になりました。私の思考が一般的でなく、多くの「国民」と呼ばれる大勢には入っていないと。
音楽を専門的に学び始めた頃と一致します。
ヨーロッパの文化に目を向けてからでしょうか。読むもの、聴くもの、話すこと、全てに「?」がありました。
それは沖縄が私の血と性のルーツだと認識した時からでもあります。
信仰心が私の中に、確かに深く有ったと自覚します。今もそうです。
でも幼い頃の想い出に、神社やお寺に手を合わせた記憶がありません。
親から教わったことがなかったようです。
母は一時仏教にはまったようですが(母と一緒に「般若心経」を唱えていました。
私はお経を覚えていましたね)、母はいつの間にかそこから抜けたようで、亡くなる前には母の「宗教」は遠いところのものだったと思います。

 その様な環境の中で育ったせいもあって「日本の宗教」には懐疑的でした。
私にとっての良くない体験が全て「日本の宗教」に根ざしていると感じたからでしょう。
血の基である沖縄に私を向かわせたのは当然だと思われます。
やっと、沖縄での祈りに手を合わせることができるようになりました。
真に「私」として祈ることができるようになりました。
73歳となった2022年6月。またあの熱い日がやって来ます。
「日本は何処へと向かう?」・・・・・・祈ります。





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