八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.198


【掲載:2022/9/18(日)】

音楽旅歩き 第198回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

「それは理想だけれどね」の言葉は使わない

   以前No.189号に「仕方ない」という言葉は使わないと書きました。
「仕方ない」には、周りに囚われる、諦(あきら)め、努力しない言い訳。なんて思ってしまうのですがどうでしょう?
話中に「仕方ない」の言葉が出て来ればそれ以上話が進展しません。
お互いが使ってしまえば〈似たような不幸の下にある者がなぐさめ合う〉、つまり互いに甘やかし合う言葉になってしまうと思うのですが。
もっと話し合って、諦めず知恵を出し合い、問題解決に息長く積極的に取り組む。
そういう取り組み方をしなければ物事の進展は無いと私は思っています。

 よく似た意味で使いたくない言葉があります。それが「それは理想だけれどね」です。
私などこれまでにどれだけ言われ続けてきたことか!「現実的で無い」「言うばかりで実現できるわけが無い」との言葉が後にくっ付きます。
最初の頃はその言われる意味が本当に理解できませんでした。
それじゃあ、「このまま放っておいて現状のままにしておく」ということなのですね。
問題意識があるからこそ、そのままでは良くないことに繋がってしまうから取り組みたいと思っているのに。
「仕方ない」「それは理想だね」で終わられてしまえば実にモヤモヤした気持ちが収まらず動きが取れなくなる。
そんな事が日常茶飯事に起こっていましたね。

 3年後(2025年)には、私が創設した「大阪コレギウム・ムジクム」が50周年を迎えます。
半世紀に渡って活動を続けてこられたのは、「仕方ない」「それは理想だね」を排し、実現してきたからだと自負しています。
「理想」を語らずしてどうして前を向くことができるのでしょう。
妥協ばかりの道には心身の疲れと絶望感による「怠惰(たいだ)」や「無責任」が現れます。
人間、夢を追ってこそ、理想を抱いてこそ「やる気」も「活気、精力」も溢れ出てくるものだと知ります。

 最近の私の指揮、動きと力強さが増してきているように思います。映像を観ても以前とは違った「思い入れ」と「力感」。
それは作品に対しての同化が一層強くなっているからだと思えます。作品からは作曲家の熱い魂の流動を感じます。
それを表現するには同じ心の流れを再現しなければなりません。
その心がもし「憤(いきどお)り」から発しているならば、演奏も「憤り」に依らなければ「真」を伝えることはできません。
「幸福感」に有る作品より、「心が軋む」中から生まれた作品に私は惹きつけられます。
「心の軋み」を通してこそ真の幸福が見える、安堵が訪れる、と信じるからです。

 我が国は今、「仕方ない」「それは理想だね」と「良い方向に向かわなければ」「平安な佇(たたず)まいへ」とが拮抗(きっこう)しているように見えます。
我が国は重要な岐路に立たされている!一体何処へ向かおうとしているのか?どのような舵を切るのか?
世界情勢が見えてくるにしたがって我が国は益々混迷を顕わにしているのではないか。
道を間違えない「知恵」を持たなければと心底思いますね。





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