八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.203


【掲載:2022/11/27(日)】

音楽旅歩き 第203回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

言葉よりも「沈黙」が理解するための饒舌手段になることだってあります

 益々世の中は「分断化」を深めていっているようです。
意見が違い、対立することもありましょう。
しかし、それは自然に起こることであって別に悩むことでもありませんし、「分断」という事態の深刻な問題にまで発展することでもありません。
私の若い頃には随分と対立する意見を喧嘩などすることなく闘わせていたことを思い出します。
皆、真剣に人の思いをはかりながら聴き、また自身の考えを訴えることを必死でしていたものです。

 最近は、私の周りでも、見聞きする場所にあっても「意見を戦わせている」光景を思い出すには時間がかかってしまいます。
少なくなっている、それが実感です。
「言う力が強い」ほうが突っ走り、「言うのを控えてしまう」ほうが意に反する我慢を強いられるという図式になっているようで、私自身のストレスも増すばかりです。
権力志向の強い方(と私には見えるのですが)は何故あのように強く対されるのでしょう。
語気も強く、相手には口を開く「間」も与えずに〈立て板に水〉のごとく御自身の弁をまくし立てて来られる。
聴く方は「間」を待つのですが、結局言えずに沈み込んでしまって終わり、でしょうか。

 私などはこうして「コラム」という形で意見を言うこともできるのですが、一般には自身の意見を述べる場所は限られています。
日常を思い出せば、意見交換が行われてもよい場所や時間が実は沢山あると思うのですが、多くの方々はそのタイミングを逃しています。
いや、恣意的に外しているかもしれませんが。
人と意見を交わす事って厄介なものです。一つ間違えれば諍(いさか)いが起こり、最悪殴り合いになるかもしれません。
それを恐れて何も言わなくなる。
日本人は大人しく、優しい国民性を持っていると良く言われます。でも私は思うのですが、「大人しい・優しい」は決して美徳ではないと。

 ルールを守りながらもっと人と意見を述べ合いませんか?
一方通行でなく、互いに意見を言い合う。そうすることでどんなに重い問題であってもいつかは最悪でない解決策を互いが見つける。
そう信じるのです。ある人が書いていました。話が上手くいくルールって三つあると。
一つは「仕事の話をしない」、二つ目は「人の話に割り込まない」、三つ目は「人の話を否定しない」ということだそうです。
これは言ってみれば、利己的にならず、相手の気持ちにも寄り添う、でしょう。聞き上手に成りなさいということです。
そしてです。相手の言い分を聴くだけでなく、しっかりと自身の考えを延べ、発せられた問いかけに正面切って応える、を私なら付け加えます。

 「優しさは愛ではない」と何処かで読みました。しかしながら「怒りは愛である」とさえ言えることもあります。
「分断」する者同士が、何を求めて、何を実現させたいのか?
個々それぞれが「幸福」への考えを言葉で互いに闘わす。その様相と対峙するのが「沈黙」。
その「沈黙」が最も強く堅く意味を持つのは、理解される「結果」としての実体が示された時。





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